オーディンの箴言とは
オーディンの箴言は、ハヴァマール、高き者の言葉とも呼ばれており、北欧の古い詩を集めて作られた作品です。
日本ではエッダ―古代北欧歌謡集などの書籍に収録されたものを日本語訳で読むことができます。
北欧の神様の名前が冠されていますが、あまりファンタジーな内容ではなく、現実的な処世術や心得のようなものです。まあ、一部は古い呪い(まじない)について触れられていますが。
ここで紹介した解釈以外にも、それぞれ自分の中から意味や答えを見つけ出してもらえたらと思います。
酒や宴席に関する心得
北欧のヴァイキング時代の詩であるためか、宴と酒に関する内容がよく出てきます。
- 注意深い客は、食事によばれたら沈黙を守る。人の話に耳を傾け、眼であたりに気をくばる。
このように、賢明な人は誰でも、あたりに注意をはらう。- 人の子にとって、麦種は、そういわれるほどよいものではない。
たくさん飲めばそれだけ性根を失うものだから。- 酒杯をもったきりにするな。蜜酒はほどほどに飲め。必要なことだけしゃべるか、そうでなかったら、口をつぐんでおけ。
お前が早く床についても、誰もお前のことを無作法だと思う者はいない。- 家畜でも、いつ家に帰るべきかを知っていて、草地をはなれる。
だが、ばか者は自分の腹の限度を知らない。
いくつかの詩を集められて作られているそうなので、同じような内容の節が何度か登場しています。
それらに共通したメッセージとして「酒を飲みすぎるな。食いすぎるな。馬鹿だと思われるから」と受け取れます。
なんとなく「ヒャッハー!」で「パーリーピーポー!!」な印象のある北欧ヴァイキングですが、無闇にハメを外しすぎるのは良くないという考えのほうが多かったのかもしれませんね。
酒宴が好きな方には耳が痛いでしょう。僕もそのうちの一人です。
賢く立ち回るための処世術
オーディンの箴言には、現代においても思わずうなってしまうような鋭い指摘を見つけることができます。
- ひろく旅をし、処々方々をめぐった者だけが、人々は誰も、分別を舵に世を渡っていることがわかる。
が、その者こそ分別をそなえた知恵者だ。- 臆病者は戦から身を守ったら、いつまでも生きられると考える。
だが、槍には無事でも、寄る年波は容赦してくれない。- 愚か者は毎晩目を覚まして、ああでもない、こうでもないと考える。
朝になると疲れ果てるが、すべては前とかわらず、みじめなままだ。- 愚か者は、自分に笑いかける者はみな友だちだ、と思いこむ。
だが、民会に行ってみて、自分の代弁者がほとんどいないことがわかる。- 愚か者は、隅にいると、何でも知っているように思う。
だが、人々が試そうとすると、どう答えていいかまるっきりわからない。
特に「愚か者は毎晩目を覚まして~」という部分は、はっとする人も多いのではないでしょうか。
えぇ、僕もそのうちの一人ですとも。
人付き合いのコツ
『コンセプトメイキング 変化の時代の発想法』で見つけた「物事の原理・原則」で話した「原理・原則」の部分にあたるのですが、国や時代を問わず人間の本質的な部分を指摘しています。
- 人から贈物をうけるのを好まないほど、鷹揚で物惜しみをしない人にわしはこれまで会ったことがないし、よしんば贈物をうけとっても、報酬が心にそまぬというほど、金銭に恬淡(てんたん)とした人にも会ったことがない。
- 友だちは、互いに武器や衣服を贈って相手を喜ばすべきだ。自分自身の経験にてらしてみればいちばんよくわかる。
贈ったり、贈られたりして、友だちはいちばん長つづきする。うまくいきさえしたら。- よいか、もしお前が信頼できる友をもち、彼からよいことを期待しようと思うなら、その友と心を通わせ、贈物をやりとりし、足しげく会いに行かねばならぬ。
- もし、信頼できぬ友をもちながら、彼からよいことを期待しようと思うなら、口先だけきれいごとをいって、心では欺き、ごまかしにはごまかしでむくいるべきだ。
- お前の信頼できない、気心の知れぬ者についてもそうだ。
その者には笑いかけて、心にもないことを話せ。贈物には同じ贈物を返せ。
こういった人付き合いを語る処世術では「みんなに好かれる方法」として書かれていることが多いのですが、「キライな人」や「信用できない人」に対しても書かれているあたり、けっこう生々しいなと感じます。
フリーランスをやっていると、時に「うまい儲け話」や「ビッグチャンス」といったネタをもって近づいてくる人に出会いますが、僕にとって「信用できない人」というのはそういった人たちです。
これは僕からの助言ですが、「最大」とか「最高」とか、すぐ「最」のつく言葉を使いたがる人間には注意が必要です。
また「儲かったら報酬を払うので~」という話に乗るのもやめたほうがいいです。
そういった人たちをうまくあしらうだけでなく、逆にこっちがうまく利用できるようになると、もう立派な狸か狐になっている自分に気付いてしまって、なんとも言えない気持ちになるんですけどね……。
逆に「どうしても長尾さんでないとダメなんです!」と言ってくれる人や、あくまでビジネスライクに内容と金額を判断してくれる人は信用できます。
この人達はよほど僕を気に入ってくれて一緒に仕事をしたいと思ってくれている人か、僕が正当だと思っている価値以上のものとして認めてくれている人達ですから。
人間の本質について
原理・原則に通じるものですが、「人とはこういった生き物である」と語られている部分も少なくありません。
- 悪い友との間には、火よりも熱い友情が五日間燃え上がる。だが、六日目がくると、火は消えて、友情は前より悪化する。
- 誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。
あまり賢すぎると、その心が晴れることは稀になるから。- 燃え木は、燃えつきるまで他の燃え木によって燃え、火は火によって発火する。
人も他の人と話をすることで賢くなる。引っ込み思案では賢くなれない。- 人が他人にいったことばの報いをうけることはよくある。
- たとえ健康でなくても万事みじめだという人はいない。
ある者は息子ゆえに、ある者は身内ゆえに、ある者は富ゆえに、また、ある者は仕事ゆえにしあわせだ。- 足が悪くても馬に乗れるし、手がなくても家畜の番ができる。耳が聞こえなくても戦って、いっぱしの働きを見せる。
目が見えないとしても死んで焼かれるよりはよい。死体は何の役にも立たぬ。(いわゆる差別表現について一部改変)
こうして人間の本質について語られている部分は、年齢を経るごとに実感が強くなっていきます。
親になると他の親御さんの気持ちがよく分かってしまって、『はじめてのおつかい』でガチ泣きしてしまったりとかあるでしょう。
はい、僕もそのうちの一人です。
オーディンの箴言で古代北欧の人たちが伝承したかったこと
オーディンの箴言には、全体を通して「分別」というキーワードが頻出します。「ぶんべつ」ではなく「ふんべつ」のほうで、世の中のことに対し常識的な考えや判断をする能力のことです。
すべてに共通したメッセージとして「よく学んで賢く立ち回り、分別を大切にして良く生きなさい」と伝えられているような気がしています。
なんというか、全体的に年寄りの小言といったイメージではあるのですが、そこは僕がいちばん強く意識している一節に表れています。
- ロッドファーヴニル、わしの忠告をいれよ。いれれば役に立つ。きけばお前のためになる。
老人の語り手を決して馬鹿にするな。老人が語ることはためになることが多い。
分別のある言葉は、しばしば、皮のそばにぶらさがり、皮のそばでゆれ、牛の胃袋のそばでよろめいているしなびた皮袋から出るものだ。
言葉狩りが怖いところではありますが「しなびた皮袋」というのは「老人の口」の隠喩だそうで、気に入っている一節ではあるものの、この部分は詩的表現なのでちょっと感覚がよく分かりません。
しかしながら、先ほど書いたように、人間の本質というものは年齢を経るごとに強く実感できるようになってきます。
そうすると、より年齢を経た人たちや歴史から得られる教訓というものの中にこそ、「分別」や「知恵」といった世の中を渡っていくために必要なことが表れているものですよね。
今回引用させていただいた他にも、というか何倍もエッダ―古代北欧歌謡集に載っていますので、ぜひいちど手にとって読んでいただきたい一冊です。